越中瀬戸 庄楽窯

 

立山の麓に暮らし 四季の移ろいを感じながら作り続けている

越中瀬戸焼のご紹介と活動のご案内です

 

富山県のやきもの 越中瀬戸焼。その歴史は古く桃山時代文禄・慶長年間まで遡ります。

越中瀬戸焼に関する最初の記録は、加賀藩2代藩主前田利長公の保護を受けた

尾張瀬戸の陶工小二郎宛ての書簡から見ることが出来ます。

差出人は天正18年から越中国の新川郡を治めていた前田五郎兵衛安勝。

宛先は「上すえ村百姓」。その主な内容は「他国からの転住者である小二郎に御用窯を築き

白土を独占的に採取させる特権を与えたから、他の者には採らせないこと」

また「小二郎が薪を入手することについて、特別の便宜を図ること」などです。

藩の保護の下、尾張瀬戸から移住してきた小二郎が、上末村で始めた焼き物。

“越中瀬戸焼”と呼ばれる由縁は、移り住んだ陶工の数が増えて

新たに瀬戸村が村立てされたからではないかと推測されています。

江戸時代後期までは、彦右エ門・小二郎・孫市・市右エ門・長八など30を超える窯元が

作陶を続けていましたが、磁器製品の流通などにより多くの窯元が瓦業へと転じ

明治・大正時代には地区全体として窯元が廃業してしまいます。

昭和4年、釋永庄次郎が瓦業の傍ら越中瀬戸焼の復興を志し

再び、上末の地に登り窯を築きます。

庄楽窯の由来は「庄次郎が楽しむ窯」から命名されました。

現在は釈永由紀夫が作陶を続け、平成16年には登り窯を一新。

現在も小二郎の時代と変わらず、この地で採れる良質な白土を用いて制作しています。